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昨日はもんじゃを食べに会社の同僚と月島に行った。実に8年振りだった。結構上手かった。
本日、昼休みに本屋に寄ったら、次のような標題の本が売っていたので買った。 ヴィトゲンシュタイン哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937 講談社(2000円) 訳者は鬼界彰夫氏。氏は講談社新書に「ヴィトゲンシュタインはこう考えた」という新書とは思えない厚さと内容の書物を上梓している。 すべての日記は読まれるためにあると言われるが、これもある意味そうしたものかなあと思いつつ購入。 この300ページを越す(うち日記部分は160ページ程度で、残りはコメンタール等)の本の最初の80ページばかりを帰りの電車の中で読んでみると、予想外に具体的な作曲家についての言及が多い。考えて見れば、パウルと兄弟であったのだから当たり前か? 例えば、数多いベートーヴェンへの言及の一つ。 <ベートーヴェンはまったくのリアリストだ。彼の音楽はまったくの真理だ、と私は言っているのだ。彼は人生をまったくそのあるがままに見て、それからそれを高めるのだ。> ヴィトゲンシュタインは、ピアノに向ってピアノを使って作曲された曲、ペンを使って考えながら作曲された曲、内的な耳だけで作曲された曲はそれぞれまったく違った性格を帯び、違った種類の印象を生み出すに違いないと言う(1931年5月6日)。そして、ブルックナーは、内的な耳とオーケストラ演奏の想像によって、ブラームスはペンによって作曲したのだと断固として信じているとも述べている(同)中々面白い見解である。ブラームスとブルックナーを対比させている部分も幾つか散見される。 <これに関する情報は作曲家の譜面から得られるはずである。そして実際のブルックナーの譜面は、私が思うに、不器用でぎごちなかった> <ブラームスのオーケストラの響きの色は、道標の色である> クララ・シューマンに対しては、ヴィトゲンシュタインは他人の言葉としながら、人間的に何かしら欠けている人という話を何回か書いている。例えば、 <彼女には先天的な何かが欠けていた、と言えるだろうか。かつてラボールは私に、彼の面前で彼女が、音楽で目の不自由な人にこれこれのことをできるのかしらという疑問を呈した、と語ってくれたことがある。それが、何だったか私はもう覚えていない。明らかにラボールはそれに憤激したようで、「いや、目が不自由であってもそれは出来るんだ」と私に言った。そして私は考えた、盲目の音楽家に対して半ば同情し、半ば軽蔑するようなことを言うのは、彼女が持っていたに違いない礼儀にとってどれぐらい特長的なのかと。>(1931年2月1日) しかし、クララが亡くなった1896年、1889年生まれのヴィトゲンシュタインはまだ6、7歳なのだが。 なお、コメンタールによると、ラボールというのは、盲目で当時は相当有名なオルガニストであったとのこと。 未来の音楽について <未来の音楽が単旋律になったとしても私は驚かないだろう。それともこれは単に、複数の旋律をはっきりと思い描くことが私にはできないからなのか?いずれにしても古い偉大な諸形式(弦楽四重奏曲、交響曲、オラトリオ、など)が何らかの役割を果たしうるだろうとは私には考えられない。何かがやってくるのなら、それは、─私が信じるに─単純でなければならない、透明でなければならない。 ある意味で、裸でなければならない。 それともこれは、ある特定の民族にだけ、ある種の音楽にだけ当てはまるのだろうか>(1930年10月4日) シェーンベルクやストラヴィンスキー、あるいはラヴェルの名前は今のところ日記には出て来ない。 マーラーについて <まさにこうした瞬間に(他の作曲家たちが最も感動させる時に)、マーラーは私にとってとりわけ耐えがたく思えるのだ。そうしたとき私はいつも言いたくなる、君はこれを他の作曲家から聞いただけじゃないか、それは(本当は)君の物じゃないんだ、と>(1931年5月6日) コメンタールを読むとマーラーの音楽に対してヴィトゲンシュタインは相当批判をしていたようである。 最後に、音楽を離れてこれまで読んだ部分で最も印象的な文章は次のものだった。 <もし私の名が死後も生き続けるなら、それは偉大な西洋哲学の終点としてのみである。──あたかもアレキサンドリアの図書館を炎上させた者の名のごとくに>(1931年2月7日) 「論理哲学論考」(1918年)において西洋哲学の最終的解決をなしたとみなした自身への自負が伺える言葉である。しかし、この後、自らこれを乗り越える、あるいは大転換をすることで、彼=思考は死後も生き続ける。
昨日は、午前中から夕方まで休日出勤で、ステレオでCDを聴けず。
本日は、目が覚めたら午前11時だったので、午後からステレオでCDを聴いて過ごす。 ・Vivaldi 5 Concertos (onyx 4001) V. Mullova(vn), Il Giardino Armonico, G. Antonini cond ムローヴァが弾いているということで購入。ヴィヴァルディは全くと言って良いほど聴かず、ここに収録された協奏曲も全く知らない曲だらけで、ふーんと思いながら聴いていた。何処と無く違って、何処と無く金太郎飴を思わせる類似性を持った作品であった。 以後スカルコッタス(1904-1949)小特集。 作曲技法については、シェーンベルクの弟子だが、彼とは異なる独自のドデカフォニー技法を用いたとCDで書かれているが、どこがどうなのか良く分からん。Amazon.ukによると、2006年10月に英国でスカルコッタスの作曲技法に関する本が出版される予定らしいので、それを待ち望んでいるところ。 ともかく聴いた曲順に若干の感想めいたものを。 ・Overture for Orchestra 'The Return of Ulysses' (c1942) BBC so. N.Christodoulou cond (BIS CD-1333/1334) 楽譜によると、スカルコッタス自身は単にOverture for Orchestraとしているが、一般的な知名度や、また彼のオペラの構想から'The Return of Ulysses' と名づけている。まあタイトルがあった方が知名度アップにつながるだろう。 オケというか指揮者が安全運転気味で、今一つ乗り切れない演奏である。譜面面以上に大人しい曲に聞こえる不満が残る。時間的にKOCHの演奏と比較はできず。もっと劇的な作品だったと思ったのだが。 ・ヴァイオリン協奏曲(1938) マルメso. .Christodoulou cond G.Demertzis(vn) BIS CD-904 分かっていても、しょっぱなのヴァイオリンの音が汚いので少し怯む。ただ健闘はしている。協奏曲録音なので致し方ないが、オケが引き過ぎている。ヴァイオリンだけでなくオケの部分も(譜面上は)非常に充実しているので、ちょっと残念。曲的には第3楽章の終わり方が、盛り上げておいてさっぱりしすぎだなあといつも思うのだが。 ・Largo Sinfonico(1944) マルメso. .Christodoulou cond BIS CD-904 非常につかみ所のない影のような曲。執拗なまでに同じ音形が繰り返され、どこまで続くのか第2ヴァイオリンによる第1ヴァイオリンの模倣は?という感じ。未完に終わった第2管弦楽組曲の第3曲となる予定であった。演奏は、つかみ所のない曲をさらに薄い響きで纏めている。譜面面はもっと面白そうな曲なのだが。 ・Seven Greek Dances for strings マルメso. N.Christodoulou cond BIS CD-904 これまでの曲が、無調、スカルコッタス独自のドデカフォニーの作品に対して、これは調性音楽。スカルコッタスの面白いところは、無調と調性音楽を並行して作曲していて、いずれもすこぶる面白いところにある。これまで聴かれなかった指揮者の気合が聞こえる。 ・ピアノ協奏曲第2番(1937) BBC so. N.Christodoulou cond G.D.Madge (pf) (BIS SACD-1484) スカルコッタスはピアノ協奏曲を3曲(2台も含めれば4曲)書いているが、その中では一番聴き易く、聴き応えのある作品ではなかろうか(少なくとも第3番よりは聴きとおし易いハズ)。初演の際のBBCで放映され、シェーンベルクの後継者はベルクでもウェーベルンでもなくスカルコッタスだと言わしめたらしい。他の二人にない熱気やロマン性という点では、この曲だけ聴くと確かにシェーンベルクの後継者に相応しいかも知れない。演奏も、他の2曲よりも(指揮者が慣れてきたせいもあってか)、雄弁である。もっともシェルヘン指揮の方がド迫力だけれども。なお、ピアノのマッジは一部で悪名高いが、このディスクに関する限りそう悪くはない。あの無味乾燥さはかなり抑えられている。 ・Tema con variazioni(1949) BBC so. N.Christodoulou cond (BIS SACD-1484) スカルコッタス最後の作品、正確には未完成。45歳で、奥さんのお腹に子供を残して胃腸系の病気で急逝してしまった。この曲も未完に終わった第2管弦楽組曲の中の1曲(第5曲)となる予定であったらしい。第3曲同様に、細かい音形でワサワサとした音響の中で、変奏が繰り広げられる。 ・Four Images(1948) BBC so. N.Christodoulou cond (BIS SACD-1484) これが、ヴァイオリン協奏曲やLargo Sinfonicoのようなドデカフォニーに基づく晦渋な作品を書いたのと同じ作曲家の手になる作品とは思えない、13分程度の調性感のある祝祭的な作品。4つの曲にはそれぞれ The Harvest The seeding The Vintage The wine-press という標題が付いていて、特に第4曲は、アンコール・ピースにピッタリの大いに盛り上がる派手な作品。 ここらで気分転換で ・マーラー:交響曲第10番(クック版) M.ギーレン指揮 南西ドイツ放送交響楽団バーデンバーデン=フライブルク (Hanssler CD93.124) ギーレンの振るクック版は、2001年11月にベルリンのコンツェルト・ハウスで2回聴いた(ベルリン・シュターツカペレが相手)。その時感じた違和感を、今回のCDでもあらためて確認できた。音のバランスがどうにも慣れている諸演奏と微妙に違う。感動を強要するような咽び泣かせるようなフレージングは一切ないのはともかく、嘗ての如き以上に、さっさかさっさか素っ気無く曲を押し進めていくので、余計に落ち着きのなさを私は感じてしまう。10番にはもうちと潤いが欲しいところである。 また、録音の継ぎ目と思しきところが結構あり、そこで背景の空気がぶちッと切れてしまうのも興ざめであった。もっとも、オケの出来はベルリン・シュターツカペレよりも丁寧で、しなやかな音であった。録音のマジックであろうか(ベルリン州立でのギーレンは、「ルル」であろうと「ペレアス」であろうと「マクベット」であろうと、マーラー同様にぶっきらぼうでゴツゴツとした音を出していた)。 実演を聴いていたので、期待外れとまでは言わないが、多分今後もあまり手を伸ばさないだろうと思う(もう一度は聞く予定)。 とりあえず、本日はここまで。 そう言えば、バルシャイ版のマーラー10番の楽譜がユニヴァーサルから売り出されている。90ユーロ程度で直接HPから購入可能。日本の店を通すとかつてのマルゼンか紀伊国屋の洋書販売のように、倍近い値段になるので、送料と時間を考えると直接購入がお勧めである。他に欲しい楽譜と懐具合を考えて来月以降に先送り(すでに別のショップに相当程度頼んでしまった後に気が付いた)。 現在は、ヘッドフォンでオイストラフin Japan1955を聴いています。これは素晴らしい!
曲目&曲順は
バルトーク:弦楽四重奏曲第2番 シューベルト:第13番「ロザムンデ」 休憩 バルトーク:弦楽四重奏曲第4番 アンコール バルトーク:弦楽四重奏曲第5番第2楽章(Adagio molto) 端的に言って、4番があまりに凄かった。CDが出たら買うべし、ハーゲンもエマーソンも霞んでしまった、という感じ。 明日もやっぱり行こう。 もっとも、困ったチャンは当日の解説。解説によるとバルトークの4番は1927年作曲と書かれていたが、それは第3番(因みにシェーンベルクの第3番も同じ年だったはず)で、第4番は1928年の作曲(楽譜を見ても、ラルース音楽辞典を見ても、音友の事典を見てもそう書いてある)。ロクシンの交響曲第1番の作曲年以上に容易に分かるものだが。渡辺和氏の専門領域じゃなかったっけ、弦楽四重奏曲は?それとも新発見資料とかピーター・バルトークの証言でもあるのだろうか? それとリゲティの解説もトンチンカンであった。第2弦楽四重奏曲が作曲されてはや37年だというのに、さらにマイクロポリフォニーについてはごまんと解説書が出ているのに、一体全体なにやってんだか専門家が、という感じ。
練馬から1時間程度で行けるとは意外と青葉台は近かった。
11月23日 青葉台フィリア・ホール アルテミスSQ リゲティ:弦楽四重奏曲第1番 リゲティ:弦楽四重奏曲第2番 休憩 シューベルト:弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」 (アンコール) バルトーク:弦楽四重奏曲第4番第4楽章 座って演奏。2002年だかに吉祥寺で聞いたときは、立って弾いていたが、その後考えを変えたのだろうか? 何はともあれリゲティのSQはどちらも素晴らしい演奏であった。 第1番、ハーゲン、アルディッティ(2種)、彼ら自身の演奏と予習を兼ねてCDを直前に聞いたが、ノリを伴いつつ一番骨太で、一点もゆるがせにしない感を受けたのが彼らの演奏だが、実演は、若干CDよりも速めのテンポに加えて、より緊張度と音の緊密度が高まった感を受けた。変質狂的なリズムの取り方、間合いや呼吸の絶妙さ、指板に強烈に叩きつけるピチカートやグリッサンドの嵐を難なく余裕をもって弾くのを聴くと、是非ともバルトークやクセナキスも聞きたいと思うのであった(アンコールでバルトークを少しだけ聞けて良かった)。 続く、第2番。マイクを持ってチェロのルンゲ氏と日本人男性が登場。演奏前に若干実演付きでレクチャーをしたいが、日本語はつたないので、英語で話させてもらい、それを通訳してもらうとのこと(アンコールの曲目は日本語で伝えてくれた)。 メモを取っていないし、通訳と違うなあと思った部分もあるが、記憶にある限りを述べると以下の通り。 (ここから) 残念ながらこの曲にはメロディありません(笑い) また、演奏している我々は感じていますが、聴衆にはリズムはないと感じられるでしょう。 伝統的な四重奏曲からはかなり異なりますが、明確に性格づけられた5楽章構成のようにバルトークの影響が見られるところもあります。 第1楽章には、電子音楽の経験を経た新しい美が聞かれます(第1楽章の72小節から81小節当りまでを演奏)。速く弾いても遅く聞こえたりします。 第2楽章は、G#のみで最初は弾かれます。通常の意味での旋律はなく、音の濃淡・強度による旋律が聴かれます(冒頭から多分8小節あたりまで演奏)。 全曲の中心に位置する第3楽章は、バルトークの弦楽四重奏曲第4番の第4楽章同様にピチカートのみで作曲されています。最初は4人とも同じ音を同じ長さの音符で演奏しますが、徐々に4人の音がずれて行きます(2分の2拍子の8分音符で始まり、16分音符の10連符とか11連符などに変じていく)。100台のメトロノームのための作品((1962年)は、それぞれのメトロノームは正しい拍を打っているのに、それぞれ異なるテンポであるために、カオスが生じるのと同じ効果があります。それでは、異なっていくところからまた同期するまで(冒頭から多分12小節半ばまで演奏)。 第4楽章は、非常に音量やテンポの振幅の大きな作品です。また、表示記号が、乱暴で残酷で狂騒状態のプレストと指示され、演奏に当っては弓を非常に強く当てて、スクラッチング・ノイズ(ギーギー、キーキーとしたノイズ)を出すことが求められています。また、演奏がきちんとなされた暁には、弓の毛が非常にボロボロになっていることが期待されています。演奏するのに凄くコストのかかる楽章です(笑い)。 第5楽章は一転して非常に穏やかな楽章です。最後は、ロマンティックな旋律が現れ、あたかも別れを告げるかのような感じです。そして始まりと同様に静寂のうちに作品は終わります。 (ここまで) 中々によいレクチャーだと思う。50年代の電子音楽の経験と、総音列主義へのアンチテーゼとしてのマイクロポリフォニーの作品として知られるが、同時に70年代以降により顕著になる(人の生理に反する)変質狂的なリズムを伴った作品の萌芽があることを示し、さらに「大いなる死」に文字通り見られる悪魔的(変態的?)な底意地の悪い嗜好の紹介まで軽く行なってしまう。楽譜を持っていけば良かったと後悔しきりであった。 さて、その演奏は、第1番以上にCDよりも演奏が良かった。もっと音の透明度、純度、硬質感が高いので、各楽章に現れるトレモロ(的)な部分が非常に美しく決まっており、特に第5楽章冒頭F#ーD#のトレモロの美しさは、背筋がぞくぞくとした。また、第3楽章にしても(リゲティの意図には反していると思われるが)五月蝿くないのである。聞いているうちに、遥か昔にラサールSQの演奏で聞いた美しい織物としての作品の姿、当時の私にとっては新しい美の登場に受けた衝撃が蘇ってきたのだった。やはり明日も無理してでも行こうと思いつつ帰宅。 帰りがけに渋谷のタワーに寄りCDを幾つか購入し、ピロシキを夕食にとって帰宅(渋谷のロゴスキーがあんなに混んでいるとは思ってもみなかった)。 因みに、購入したCDの一つは、ラトル指揮BPOの「英雄の生涯」。プロムスで聞いたのと同じく、豪壮さよりも細部の美しさに拘り、内密ないしは叙情的な感じのちょっとユニークな演奏であった。 購入ついでにタワーで貰った冊子によると、ラトルは、もはや好きな曲をいつでも録音できる時代ではないと達観しており、オペラ録音はあのドミンゴの出た「トリスタン」でEMIは終わりとまで言い切っている。あれが最後のオペラ録音というのは、EMIにとって不名誉な話だと私は思うのだが。また、ショスタコーヴィチの1番、14番の録音が終わり、15番も予定されているのは嬉しい話だが、「指輪」を録音しないとは、やはり残念だ。
帰宅して部屋に入ったら、雰囲気一変。母はちと部屋が狭くなった気がすると言っていたが、落ち着いた感じになり、私は気に入ったのだった。
裏地を入れたこともあり、遮光性にすぐれ、カーテンを閉めると部屋が真っ暗となる。これで本やCDの痛みが大分軽減される(残りは湿気との戦いのみ!)。
アルミンク指揮 新日本po.
ブルーノ・ゲルバー(ピアノ) 栗友会合唱団 ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 ロクシン:交響曲第1番「レクイエム」 ラフマニノフの3番、ゲルバーの音の大きさに驚く、特に1楽章はオケがいたのかなと思った。でも豪勢に鳴らしている割には印象に残らず。単調に感じ、途中で退屈してうとうとすることも多々あり。拍手は盛大であった。 ロクシンの交響曲第1番。ロクシン(1920-87)自体初耳。 解説によると、ソヴイエト・ロシアの作曲家で体制派、反体制派の双方から疎まれていたらしい。 また、シューベルト、ブラームス、マーラー、ベルクの影響を受けたと自ら明言していたらし。なるほど、この曲、出だしから終わりまでマーラーの「大地の歌」と第9番が随所にエコーしている。薄いテクスチュア、諸な引用(そもも第9番自身が大地の歌を参照しているのだから両者の引用が聞こえるのは当たり前だが)が非常に耳に付く。 また、マーラーの遠い先祖であるシューベルトの世界が聞こえてくる(この当りもジョナサン・ノット指揮バンベルク響のCDの「シューベルト・○○ローグ」シリーズ所収の様々な作品や、ギーレンもラトルも振っている10番の2楽章などの響きが容易に想起できる)。 そして、ベルクもそうした響きの海の中、印象的に響く瞬間が訪れる。「ルル」(あるいはルル交響曲)、そしてショスタコーヴィチの「マクベス夫人」やポポフの交響曲第1番でも聴かれるヴォツェックの響き。少し唐突なので、本歌取り的発想なのか、そうした意味を切り離した音響なのか今ひとつ不明。 ブラームスはどこか?ドイツ・レクイエムかな?と思わせる部分があったが、自信はない。 これらの響きの中でラテン語の「レクイエム」が歌われ、最後はマーラーの9番の如く、とはいえ独奏ヴァイオリンによる音が、静かに消え入る。 演奏は真摯なものであった。ギクシャクと良く分からずに音だけ出していますという感じは受けず、音の断片がパッチワークのように、しかし薄いテクスチュアの部分が多いにもかかわらず、充実した響きで、「滑らか」に演奏されていた。 私は感動こそしなかったが、結構面白く聞いていた。ただシュニトケやカンチェリ、グヴァイドゥーリナ等を聞いてしまった後では、それにアイヴスの交響曲第4番やベリオのシンフォニアという傑作を知った後では、パッチワーク的作品としてはもう一ひねり欲しいなあという気もするのであった。 因みにロクシンは交響曲だけで11曲を創り、そのうち4番だけが器楽のみで演奏できるそうだ。ベートーヴェンにせよショスタコーヴィチにせよ1番だけで後の作品を想像できないし、それで作曲家の資質を判断することは出来ない。2番以降を聴く機会が欲しいものであるが、声楽入りでは難しいところである(ニールセンの3番だって演奏されないの)。とりあえず佳作だと思ったので、他の作品にも期待して待っていよう。 当日配られていたチラシの中に読売日響の2006年度のコンサートの案内が入っていた。ロシア物が多い中、来年12月にカンブルラン指揮、ムラーロのピアノで「トゥーランガリーラ」が1回入っている、これは聴きに行かねば。 そう言えばカンブルランがピットに入っているパリ・オペラ座から11月にC.シェーファーが、ベルクのアルテンブルク歌曲集をナッセン指揮で歌うというメールが来ていた(添付されていた写真は夏のアムステルダムの運河を室内から眺めるシェーファーであった。多分ヘンデルの「アルチーナ」のリハでアムステルダムに行った時の写真だろう)。カーテン代の支払いさえなければ行くのだが...。 帰宅途中に、HMVに寄り、アルテミスSQがヴァージンに移籍後初録音したベートーヴェンのSQ集のCDを交換する。何故か家のCDプレーヤー(含むパソコン、CDレコーダー)では全くかからないのだ。ところが、店頭のCDではきちんと再生できた。焦ったが、親切にもHMVは交換に応じてくれたのだった。良かった良かった。 しかし、交換後、メインのCDプレーヤーでは再生できたが、パソコンでは再生できなかった。これではiPodに格納できない!盤面をみると、CD情報の記録層とそれ以外があまり区別して見えないのだが。 そのCDの交換を待っていた時に、アラビア風のとか喋っている声がちらと聞こえた。まさか山尾さんのblogと同じ人だったのか?確かに押し付けがましくなく、自分趣味ではなく、お客さんの(あやふやな)好み(と予算)に沿ってCDを勧奨できるソムリエっぽい人が店頭に一人くらいいるのは良いかもしれない。私には無理だけど。
昨日、母が頼んだカーテン専門店の人が、様々な見本を見せに我が家に来た。
我が家を立て直して早10年、建築時に安く上げることしか念頭に無かった亡き父が、「一番安い物」という理由で選んだカーテン・レース類が各窓に付けられている。カーテンを必要とする部屋が5部屋、窓数は、大きな物(天井近くから床まで)が4箇所、中程度(床上1m程度まで)が5、小窓が4で、当時のお値段で30万円。幾ら何でも安すぎるとは当時でも思ったが、案の定カーテンは電燈をともすと外から室内で何をしているか透けて見えるし、洗濯するたびに非常に古ぼけてくる。さらに薄いので防音・防寒の役に立たない、と安物買いの銭失いを文字通り実践してしまった。 父亡き後、今回こそは自分で選ぶと母は張り切り、通販やデパートを巡って、結局近所のカーテン専門店を探し出して来た。値段と柄、布地の特質等を聞いていた母は、私にどれが良いのか一応聞くのだが、すでに決めてのことだし、まあ家にいる時間は母の方が圧倒的に長いし、この手のものについては全く無知(かつ無関心)なので、厚手で、外から透けて見えない物なら何でもいいよと言った。 そこで母が(すでに)選んだ品は、布地といい、織りといい、柄といい、門外漢の私が見ても、確かに見本の中で一番良いものであると同時に、見本の中では一番お値段も高く、交換予定の窓分全てで100万円(工事費、折り目付け、新規カーテン・レール設置料、消費税含む)であった。正直「たかーーーい」と思ったが、まあ、今度の物は20年は使えるらしいし、母たっての希望であるので、致し方ない(自分用に高いスピーカーを買ったこともあるし)として、購入決定。それにしても、20年後私は生きているだろうか?その前に金の工面をせねば。 本日は新たな本棚を探しにわざわざお台場の大塚家具に。この2ヶ月ほど再度本棚を探していたのだが、希望サイズのものが無かったので、若干部屋のレイアウト等を見直して、希望サイズを変えたところ、ちょうどぴったりのサイズかつ、手ごろな値段の本棚が見つかったので即購入。ピアノ譜をしまう場所がようやく定まって一安心である。
本日は、代休でもあり、お昼前から本棚探しと散髪に加えて、肩凝り腰痛がひどくて頭痛が治まらないので、指圧に出かけてからコンサート。散髪の際、宮崎弁を日本語として覚えて帰ってしまった英国人女性の話を聞いて笑ってしまった。流暢な宮崎弁をしゃべるそうだ、偉い。
という訳で本日のコンサート 東京芸術劇場 ユベール・スダーン指揮 東京交響楽団 シューベルト:交響曲第2番 (アンコール) シューベルト:劇音楽「ロザムンデ」から間奏曲 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 ピアノ独奏 アファナシエフ 編成は、6−5−4−3−2。ティンパニも小型の物。 シューベルトの演奏は、非常に整えられた弦の音のもと、典雅にしかし軽快で、ここぞという時にはアクセントを強調する楽しい演奏であった(指揮ぶりも瞬発式で、それにオケが良く反応していた)。中々好ましい演奏であった。 とはいえ、シューベルトの交響曲第2番、こんな曲だったっけ?である。3番以降は何気に聴くが、1番、2番はもう何十年も聞いていないと思うので、「あー、2楽章って変奏曲だったのか」と新しい発見もあり、また、使われている旋律も後のオーケストラ作品で良く聴くものが多かった。 そして、お待ちかねの「皇帝」。アファナシエフとスダーンのCDは出ているし、聞いてはいたが、分かっていても実演はハラハラ、ドキドキするものであった。なんにしても東響は偉い、よくアファナシエフについていったと思うのであった。聞いていて、シューマンのピアノ協奏曲をめぐっての、ルプーVSサー・コリン&LSOの戦いを思い出してしまった。音楽的傾向の違う二人による奇妙なアマルガムであったが、当夜の演奏もそれに勝るとも劣らない奇妙な演奏であった。 1楽章の出だし、意外とアファナシエフはまともで、それなりに勇壮に開始し、隣りのおじさんは、ベートーヴェンの聴く人を巻き込まずにはいられないリズムの推進力と、和声の力にまんまと乗っていたが、ピアノ、というよりアファナシエフのパートに入ると「あれ?」という感じ。彼は、オケから旋律を引き継ぐと次第にテンポを落として、ゆらゆらといつものアファナシエフ節に持ち込む、カデンツァでは、長いゲネラルパウゼを入れてから開始して、それまでの勇壮さとは別の冥界にピアノだけ入ってしまう。それでも1楽章はまだオケのテンポ感にあわせていたところが多々あった。 2楽章に入るとアファナシエフ節全開となり、オケもそれに合わせざるを得ず、もう大変そうであった。オブリガート的に木管やホルンが音をうっすらと被せつつ、アファナシエフの指先を見ながら指揮をするスダーンの手が動くのにあわせて次の音を吹くという状況。どうみてもオケとアファナシエフの間というか時間感覚が異なっているのだが、ここは独奏者を立てておりました。そしてようやく2楽章と3楽章のブリッジ部分に来たと思ったら、アファナシエフはさらにテンポを落とし、途切れ途切れに弾き始めて、聴く人を(多分オケも)焦らす焦らす。 とはいえ、3楽章入り後は、相対的にではあったが、テンポ・アップして晴れがましく弾き、輝かしくそれなりに勇壮に曲は終わったのだった。 終演後、指揮者と独奏者は抱き合っていた。一応お互い納得ずくなのかな? 明日は、特にコンサートの予定はなし。
ブーレーズ:二重の影の対話 クラリネット:アラン・ダミアン
ベルク:クラリネットとピアノのための4つの小品op.5 クラリネット:アラン・ダミアン シュトックハウゼン:ピアノ曲VII シュトックハウゼン:ピアノ曲IX ノーノ:...苦悩に満ちながらも晴朗な波... ノーノ:森は若々しく命に満ちている (声楽、テープ、クラリネット、パーカッションのための) ベアト・フラー指揮、ケルン打楽器四重奏団 クラリネット:アラン・ダミアン ソプラノ:バーバラ・ハンニガン 声優:エレーナ・ヴィチーニ、カディジア・ボ−ヴェ ジョエル・トンプルー サウンド・プロジェクション:フライブルク南西放送局ハインリッヒ・シュトローベル記念財団スタジオ デイレクター:アンドレ・リヒャルト アシスタント・ラインホルト・ブライク ポリーニのピアノは、ベルクとシュトックハウゼンの2曲、そしてノーノの「...苦悩に満ちながらも晴朗な波...」のみ。もっとも、「森は」では、リヒャルトの隣に座って、しきりにコンソールの方に身を乗り出していたので、何か手伝っていた(邪魔をしていた)のかもしれない。 隣の親子、前の席のカップルは「ぜんぜんしらなーい、寝ちゃうかも」といった話をしていたとおり、前半はまさに寝ていたし、後半には消えていた。 アラン・ダミアンのクラリネットは、当たり前だが非常に上手く、美しいと「二重の影の対話」を聞きながら思った。場内が真っ暗になり、スーピカーからあらかじめ録音されていたクラリネットの音が場内を飛び回ると、ステージ上にうっすらとスポット・ライトが当たり、ダミアンが吹き始めるという趣向。場内が暗くなるたびにダミアンはステージ上を少しずつ移動して行った。ポリーニを聴きに来たのにと明らかに不満そうな隣の親子。この美しさが分からんのかーと怒鳴りつけようかと思ったが、場所が場所なので止めておいた。 続くベルクの小品。盛大な拍手に応えて、何と全曲を繰り返した、といっても全曲で7分に満たないんだけど。ここでもポリーニのピアノよりもダミアンのクラリネットの方が映えている、やはりポリーニも年かな、とか思う。 ところで、二人が全曲を繰り返し始めたとき、客席であわててプログラムを広げる人が多かった。予習してきなさいというより、たった今演奏したばっかりの曲じゃん、ちゃんと聴けよ!と思うのであった。 続く、シュトックハウゼン。IXは1998年にも聴いた記憶がある。これは非常に美しく響いたが、ポリーニらしい硬質さがあまり感じられないのはホールのせいか。 ここで休憩。 ノーノがポリーニのために書いた晩期を予感させる「...苦悩に満ちながらも晴朗な波...」は、ホールと最近?のポリーニのピアニズムもあってより叙情的な響きとなり、しみじみと聴いてしまった。 そのままの状態で、ノーノの「森は若々しく命に満ちている」を聴いてガツンと頭をぶったたかれる感じであった。場内も一気に静まり返ってしまった。曲の出来に感動したというより、その阿鼻叫喚の大音量に圧倒されてしまったという感じであることは否めない。 なぜ、多少時代がかった、ベトナム戦争に反対したこの作品をポリーニが今取り上げることを望んだかは不明だが(1日に何かしゃべったかもしれない)、少なくとも戦争やそれに伴う抑圧って生易しいもんじゃないよということは作品を通じて明らかに伝わるものであった。 ソプラノと声優はマイクを通していたとはいえ、凄まじい声を張り上げていたし、打楽器といっても巨大な金属板4枚をか金槌?で叩いたり、チェーンでこすったりと、最後の瞬間を除いて安心できる音がない作品であった。 これぞノーノというか、一般的に思われているゲンダイオンガク、故になかなか取り上げられないこの曲を聞かしてくれたポリーニには感謝。この曲は名のみ知っていたが、実際に聴くのは初めてだったのだ。 終演後、盛大な拍手とブラボーの中、真後ろの席の人がしきりにブーを飛ばしていた。論争をしかけて喧嘩する気にもなれず、最後まで拍手して帰宅。 明日は、元気だったらアファナシエフの「皇帝」を当日券で聞きに出かける予定。
会社の帰りに新宿タワーによってCDを物色していたら、「のだめカンタービレキャラクターBOOK」が売り出されいたので購入。帰宅後ラトル&ツィメルマンのブラームスのピアノ協奏曲第1番のCDも聞かずに読んでしまった(当然大笑いした)。その中に、本編でも出ていたパリのレストランとして、バスチーユ近くのブラッセリーを紹介していた。向うにいる間から、ここではないかと思っていた所でありました。
ただ、オペラ座に近いこともあって3回程この店には行きましたけれども、エスカルゴはメニューに無かった記憶があります。大好物なので見落とすはずはないのですけどねえ。結局フランスではパリはルアールの専門店で3ダース、リヨンで2ダースしか食べれず、いまだに心残りであります。ロンドンにもソーホーに「エスカルゴ」というレストランがあり一度行ってみましたが、ここはエスカルゴを使った料理を出しており、非常に美味しかったです(確かミシュランの星が一つだったかな?)。しかし、ロンドンのレストランなので値段も非常に張ったのも事実で、かつ一人では入りづらい店でした。 先週から風邪をひいて、会社から戻ると殆ど直に寝てしまう生活が続いていまして、昨日は10時には寝ていました。ただ、日曜日にはアファナシエフのリサイタルにはある程度体調を整えて行ってきました。 彼のCDはほぼ買っているのにコンサートは初めてで、正直たまげました。そのCDどころではない異常な緊張感の溢れる演奏会。シューベルトの休符の意味合いの凄さを感じさせてくれました。 曲目はD.784イ短調、D.664イ長調、D.845イ短調、因みに最後の曲は、のだめがマラドーナ国際コンテストでも弾いた曲で、こんな曲を課題曲にするコンテストって一体何?とか思っていたのですけど(漫画のコマに描かれた譜面からみるとは1楽章だけ?)、良い曲です(でも私は双子のD.840のハ長調の方がもっと好き)。 私同様風邪をひいている人や招待客が多いのか(朝日新聞で読者プレゼントをしていたらしい)、ざわついていたのが、1曲目D.784の提示部が繰り返される頃には、ウソのように静まりかえりました(勿論咳は出ますが、極力抑えようという努力の跡アリアリのものでした)。緊張度の背景には、まず速度表示はアレグロのはずがアンダンテいやモデラート?という感じの遅さ、それに加えて、主題提示に続く最初の休符が八分+四分休符のはずなのに、もの凄く長い、そしてピアノからだらんと手を下ろすアファナシエフの姿もあって、冥界への門がそこに開かれたかのような、シューベルトに良く言われる都会人の孤独の暗さや寄る辺無さを越えた底暗さがその休符に聞かれるのでした。この後も長い休符が続きました。 さらに、彼はダイナミックレンジの幅を非常に大きく取ります。シューベルトのピアノ・ソナタはフォルテシモが(多分)最大の音量記号なのですが、ベートーヴェン同様にそれは心理記号であるといわんばかりに割れんばかりの強音を聞かせてくれるので、普段シフ等でD.784を聞き慣れている身には、その振幅の大きさと沈黙に驚愕するばかりでしたし、余計に休符の沈黙が空恐ろしく聞こえてくるのでした。 こうした演奏は、一つ間違えるとただのスタンド・プレーにしかならないところがそうならないで最後まで聞かせてくれるのは、それ以外の部分で非常に細かく強弱と旋律線の交替をきちんと聞かせるという丁寧さも併せ持っていたおかげで、いやあ実演の方がCDより凄い(この3曲のCDは無いのですけど)と打ちのめされてしまいました。第4楽章も音がすべて潰されてクラスター状態の音の虚無的なうねりが押し寄せてくる、ショパンの2番ソナタの第4楽章を先取ったかのような音楽でありました。 続く。D.664は、見事でしたが、D.784の後だと本当にホッとしました。もともと明るい曲調でもありますし。 そして。D.845。モデラートではなくラルゴ?というように主題を一音一音石に刻み付けるかのように弾く。その後もけっしてテンポは上がらず、重い和音の連続でありました。勿論4楽章はそれなりに快速で、かつ最後のアッチェレランドは、シューマンの第2ソナタの表示、最速で、しかしさらに速くを思い起こさせるように狂気染みた速さを追求しようと試みていました(若干指がもつれていましたけど、そんなことは問題外の演奏でありました)。この演奏を聴いたあとにはポリーニの詰まらない演奏(本当に何故あなたは録音に同意したの?と尋ねたい演奏)は本当に2度と聞く気にはなれませんでしたし、シフも聞きなおしたのですけど、うーむ、違うぞとこの曲に対する私のイメージは大きく変ってしまったのでした。 ラトル&BPOとツィメルマンによるブラームスのピアノ協奏曲第1番の演奏は私好みであります。因みに、イヤー・スピーカーで聞く限り、録音はEMIのアンスネスと組んだものより広がり感があって良いです(笑) という訳で、明日はポリーニの参加する「ノーノ・プロジェクト」に行きます。これから予習せねば。
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