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労作である。しかしそれだけである。
まず、副題「前衛の終焉と現代音楽の行方」は誇大広告であろう。せいぜい「3作曲家の作風転換についての主観に基づく報告」でしかない。 「前衛の終焉」についても、「現代音楽の行方」についても本論では殆ど語っていない。まさにそこが語られねばならない瞬間、補諭に飛んでしまい、それまでの分析で排除し、それこそが売りだった社会学的分析を導入してしまう。その趣旨は、「資本主義の論理の貫徹と教養主義の崩壊によって、現代音楽がそれまでの新しさの追求が経済的に困難になった(現代音楽を支える知的資本を持つ人々─ある程度金も持っている人々─が離反した)。それゆえ、現代音楽の作曲家は、意識的にせよ無意識にせよ、大衆に擦り寄るべく前衛的な作風を和らげてゆき、いずれこのジャンルはポピュラー音楽に溶け込んで消える」というものである。 良くありがちな論である。しかし、価値が新しさ(差異)に依存している以上、音や音に基づいて構成された何かに常に新しさを求めることが可能なシステムである現代音楽は無くなりようがない。 さらに資本主義においては、「数」が必要であり、多くのパトロン(知的資本の所有者)を失ったので現代音楽は死に絶える(あるいは消える)と「数」に拘るならば、一体全体、18世紀の前衛、19世紀の前衛、20世紀の前衛がどの程度の聴衆を集め、あるいは寄付金なりパトロンによって支えられていたのかという、極めて実証的な分析が必要である。そうでなければ、この主張は、現代音楽が聞かれるかに「数は関係ない」という意見と同じくらい、単なる思い込みでしかない。 豊富な譜例を見せているので、この著者は「数」や「統計的事実」に依拠して論や証明を行なっているようだが、実は適切なデータの取捨選択およびその処理を行なわずに議論を行なっており、かなり危うい、あるいは杜撰に見える。 中身の論やその証明は多くの譜例を基にして行なわれているが、その結論は、譜面ズラを眺めて、「豊富」とか「認められない」の一言で済ませてしまうという、極めて主観的判断に基づいて導かれている。譜面を見れば誰でも分かる話であり、少なくとも同じ音楽の友社で出されていた「20世紀の作曲」や全音の「現代音楽の記譜」には同じ程度のことは書かれている。 そこで、私はてっきり、「ストラヴィンスキーは生きている」並の詳細な分析を各楽譜に施して、一見しただけでは分からない新たな構造なり背景が各3者の楽譜を通じて見出されたとか、文学研究における統計の導入(分かり易い紹介本としては中公新書の「シェークスピアは誰ですか?」を参照)と同様の試みで、譜面や「音響」、あるいは「調性的」という主観的で人によって異なる判断を下ろすところに、統計(量)というある程度厳密な判断基準を導入したのかと期待していたので、非常にがっかりな内容である。驚きや発見の無い書物は、岩井克人的に言えば「無価値」である。 内容の「無価値」さに加えて、先にも述べたとおりデータの取捨選択に問題がある。著者は理由を挙げて、リゲティ、ベリオ、ブーレーズを取り上げている。しかし、その理由では、シュトックハウゼン、ノーノ、ヘンツェ、クセナキス、ペンデレツキ、ケージ、ルトスワフスキーetc.を取り上げないのは、全く理解できない。私から見ると、著者の主張なり結論がまずあって(それは既に言い古されていたものだが)、それに合致したデータを先験的に選び取った結果だとみえる。だからといって演繹的にも帰納法的にも証明の体もなしていない。 また、ブーレーズについては、ワーク・イン・プログレスの作品について、楽譜を追いかける作業が膨大であるという理由を挙げて行なっていない。過去の作品の度重なる改訂こそ、時代の変遷に伴う思考の変化の反映、あるいは著者が補論で開陳した「聞いてもらえてなんぼでしょ」ということを明らかにすると思われるが、その点については全く触れていない点は腑に落ちない。 因みに、補論を除いた部分は博士号論文だそうだ。こんな杜撰な研究で博士号論文がもらえるとは、音楽学の世界は現代音楽の先行き以上に問題が多いのではないか? という訳で、「のだめカンタービレ第13巻」を再読してから寝る。こちらの方が遥かに遥かに上質な音楽書である。
[この記事へのコメント]
某音大で沼野雄司氏の授業を受けていました。
授業を受けていた者としてはかなり納得・理解できる内容の書ですが、どうやら素人向けではないようですね。 そもそも音楽書の批判にしては観点が大分ズレているように思えます。 No.106 2006/12/08(Fri) 20:34[編集]
どうも、はじめまして。
内容は素人向けではないと思います。譜例も幾つも載っていて資料的な価値はあります(これらの楽譜は高いですから、手元においておくのは難しいです)。 観点がズレているというのはどのあたりなのかが分からないのですが、補論が本来の論旨からすると余計であり、内容的には陳腐だとは今でも思っています。 それでは今後ともよろしくお願いします。 No.107 2006/12/09(Sat) 22:45[編集]
「価値が新しさ(差異)に依存している」考えそのものに問題があると思います。上記のような考えが色褪せた結果が
現代音楽界の現状ではないでしょうか? No.195 2007/12/09(Sun) 13:27[編集]
コメントがついていて初めてこのエントリーに気付きました.リゲティやベリオの各論としては、結構参考になりましたね.譜例も載ってるし.
一方、「前衛の終焉と現代音楽の行方」なんて初めから語る気ないでしょ、この本は(笑).序論と後書きに取ってつけたように受け売りしてるだけなのがいかにもどなたかに審査してもらう提出論文的ですが、St. Ivesさまの > さらに資本主義においては、「数」が必要であり、多くのパトロン(知的資本の所有者)を失ったので現代音楽は死に絶える(あるいは消える)と「数」に拘るならば、一体全体、18世紀の前衛、19世紀の前衛、20世紀の前衛がどの程度の聴衆を集め、あるいは寄付金なりパトロンによって支えられていたのかという、極めて実証的な分析が必要である というコメントが正に的確と思います.この本を過度に腐す気はありませんが、日本の中堅音楽学者を代表する沼野氏だからこそ、このレベルではいけないのだと思う. 価値が「差異に」依存しているのはポピュラーに擦り寄る現代音楽まで含めて今も同じだし、それが書法であれコンセプトであれ何らかの「新しさ」の追求である、という事情も、「少し詳しく見れば」半世紀前との変化を見つけるのは難しい.何が変わったのかを見極めるには、定量的でかつ社会学的に厳密な分析が必要です. # ブーレーズ・ファン的には、せめて《レポン》を何とかしろや、と思うところですが.ブーレーズの創作を経時的に追うなら、ここを外して《デリヴ1》だけ取り上げても意味がないでしょうし、楽譜が出ていないとは言っても専門家なら分析論文くらい読んでいるはず.ザッハー財団に行けば閲覧はできるのだし.... No.197 2007/12/15(Sat) 15:24[編集] [コメントの投稿]
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