昨日はもんじゃを食べに会社の同僚と月島に行った。実に8年振りだった。結構上手かった。
本日、昼休みに本屋に寄ったら、次のような標題の本が売っていたので買った。
ヴィトゲンシュタイン哲学宗教日記
1930-1932/1936-1937
講談社(2000円)
訳者は鬼界彰夫氏。氏は講談社新書に「ヴィトゲンシュタインはこう考えた」という新書とは思えない厚さと内容の書物を上梓している。
すべての日記は読まれるためにあると言われるが、これもある意味そうしたものかなあと思いつつ購入。
この300ページを越す(うち日記部分は160ページ程度で、残りはコメンタール等)の本の最初の80ページばかりを帰りの電車の中で読んでみると、予想外に具体的な作曲家についての言及が多い。考えて見れば、パウルと兄弟であったのだから当たり前か?
例えば、数多いベートーヴェンへの言及の一つ。
<ベートーヴェンはまったくのリアリストだ。彼の音楽はまったくの真理だ、と私は言っているのだ。彼は人生をまったくそのあるがままに見て、それからそれを高めるのだ。>
ヴィトゲンシュタインは、ピアノに向ってピアノを使って作曲された曲、ペンを使って考えながら作曲された曲、内的な耳だけで作曲された曲はそれぞれまったく違った性格を帯び、違った種類の印象を生み出すに違いないと言う(1931年5月6日)。そして、ブルックナーは、内的な耳とオーケストラ演奏の想像によって、ブラームスはペンによって作曲したのだと断固として信じているとも述べている(同)中々面白い見解である。ブラームスとブルックナーを対比させている部分も幾つか散見される。
<これに関する情報は作曲家の譜面から得られるはずである。そして実際のブルックナーの譜面は、私が思うに、不器用でぎごちなかった>
<ブラームスのオーケストラの響きの色は、道標の色である>
クララ・シューマンに対しては、ヴィトゲンシュタインは他人の言葉としながら、人間的に何かしら欠けている人という話を何回か書いている。例えば、
<彼女には先天的な何かが欠けていた、と言えるだろうか。かつてラボールは私に、彼の面前で彼女が、音楽で目の不自由な人にこれこれのことをできるのかしらという疑問を呈した、と語ってくれたことがある。それが、何だったか私はもう覚えていない。明らかにラボールはそれに憤激したようで、「いや、目が不自由であってもそれは出来るんだ」と私に言った。そして私は考えた、盲目の音楽家に対して半ば同情し、半ば軽蔑するようなことを言うのは、彼女が持っていたに違いない礼儀にとってどれぐらい特長的なのかと。>(1931年2月1日)
しかし、クララが亡くなった1896年、1889年生まれのヴィトゲンシュタインはまだ6、7歳なのだが。
なお、コメンタールによると、ラボールというのは、盲目で当時は相当有名なオルガニストであったとのこと。
未来の音楽について
<未来の音楽が単旋律になったとしても私は驚かないだろう。それともこれは単に、複数の旋律をはっきりと思い描くことが私にはできないからなのか?いずれにしても古い偉大な諸形式(弦楽四重奏曲、交響曲、オラトリオ、など)が何らかの役割を果たしうるだろうとは私には考えられない。何かがやってくるのなら、それは、─私が信じるに─単純でなければならない、透明でなければならない。
ある意味で、裸でなければならない。
それともこれは、ある特定の民族にだけ、ある種の音楽にだけ当てはまるのだろうか>(1930年10月4日)
シェーンベルクやストラヴィンスキー、あるいはラヴェルの名前は今のところ日記には出て来ない。
マーラーについて
<まさにこうした瞬間に(他の作曲家たちが最も感動させる時に)、マーラーは私にとってとりわけ耐えがたく思えるのだ。そうしたとき私はいつも言いたくなる、君はこれを他の作曲家から聞いただけじゃないか、それは(本当は)君の物じゃないんだ、と>(1931年5月6日)
コメンタールを読むとマーラーの音楽に対してヴィトゲンシュタインは相当批判をしていたようである。
最後に、音楽を離れてこれまで読んだ部分で最も印象的な文章は次のものだった。
<もし私の名が死後も生き続けるなら、それは偉大な西洋哲学の終点としてのみである。──あたかもアレキサンドリアの図書館を炎上させた者の名のごとくに>(1931年2月7日)
「論理哲学論考」(1918年)において西洋哲学の最終的解決をなしたとみなした自身への自負が伺える言葉である。しかし、この後、自らこれを乗り越える、あるいは大転換をすることで、彼=思考は死後も生き続ける。
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